Blog for complaining

世の中不満だらけ

恋愛力

全開の記事で「結婚制度の崩壊」と書いたが、恋愛結婚が主流になった時点でそれは予測できた。一部のイケメン、モテ男と結婚を夢見る女性が増えれば、現実的な結婚は苦痛でしかないからだ。

全ての日本人がイケメンになることはないので、これからも結婚が素敵などと思う人は少なくなるだろう。

男性の問題というよりも、社会の問題として真面目に恋愛を社会の中で重要視していないのだ。恋愛することは人生にとって取るに足りないことと考える日本人は多いだろう。

自分も仕事を優先してきたが、若い時は失恋して会社を休んだときもあった。自暴自棄にもなった。やはり、恋愛は人生に大きなインパクトを与える重要なポジションだ。でも日本社会ではそれはあまり同情されない。仕事で活躍することが大事なのだ。

自分も歳を取り、社会で活躍するピークは過ぎた。今思えば、恋愛という日本人が馬鹿にしていたことは人生にとって、とても大事なことなのだ。

男性も女性も大人も子供も恋愛をもっと大事にする社会をつくることことそが社会を安定指せることだと思う。

お金があれば愛が買えるとか、本気で言っている人がいるが、それはない。アメリカの成功者が口々に話しているが、大事なものはやはりお金では買えないのだ。

恋愛はその代表だろう。疑似恋愛ばかり増えてしまった今、本当の恋愛ができなくなってしまった。

自分もビジネス優先で今でもビジネスを考えるのが好きであるが、心のどこかで激しい恋愛を求めている。それが日本では表だって言えない環境を作り出しているのだ。

絶対にないと思うが、日本が世界を代表する恋愛先進国になれば、世界から評価されるだろう。

源氏物語という世界でも有数の恋愛小説を昔に書き上げた日本人が絶対できないとは思わないが、どうだろうか?

結婚制度の崩壊

現代における結婚制度は完全に崩壊している。日本における結婚とは家と家とが結ばれる結婚であった。それが急速に個と個ととで結ばれる形になったのだ。

しかし、恋愛というものが個人の力量に委ねている。日本人はそもそも恋愛ということに慣れていない。長い間、恋愛ということに慣れている西洋に比べれば、とても恋愛が上手といえないのだ。

恋愛と結婚は別と割り切って結婚した人の末路は仮面夫婦から離婚に至るまで、やはり人は好きではない人とは一緒に居られないのである。

そういう欺瞞が若い人の間で親の関係を通して、理解されている。従って、そこに昔のようなステレオタイプ的な結婚をゴールとする考え方はもうないのだ。

それに日本に限らずアジアでは親兄弟を大切にする文化があるので、夫婦関係が希薄になる。そのため家族として生活する役割しかパートナーに求めることはない。そうなるとパートナーとしての役割を外に求めることになる。

その関係は一見すると合理的であるが、そもそも家族が解体すればそこにはもう一緒に居る理由がないのだ。

子育てを終えた女性や家族への愛着がない男性にとっては結婚は苦痛でしかなくなるのである。

日本人は一旦仲良くなると、プライベートに干渉する人が多いので、個と個ととの関係が破壊される。プライベートゾーンに入ることを気にしなくなるのだ。

そうなるとその関係を清算することが難しくなる。日本での離婚の手続きが面倒なのはそういった理由からだ。

もう結婚するということは、人生にとってメリットではない。本質的に言えば、パートナーを作ることが大事であり、そのパートナーこそが心と心がつながる関係として成立しなければいけない。結婚していないと体面上恥ずかしいといった関係では難しいのだ。

もちろんどんな人でもそれなりに心がつながることはできると思う。しかし、もっと踏み込んだ精神的な関係を築くのは難しい。やはり人はそれぞれ好みがあるのだ。

もうそこで妥協して結婚するメリットは育児や生活のためなど損得勘定でしかない。

結婚しないことは個人が欲望を優先したという論調があるが、私は違うと思う。より精神的なパートナーを欲することを優先することで、結果的に結婚という制度がそれに合わなくなってきているからだ。

大事なのはやはり心の幸せであり、金銭的な幸せではない。金銭的な幸せを追い求めることで、女性が結婚に夢を持つことはとても野蛮なことであると思う。

女性が結婚を経済的に考えているのは、結婚がもつ硬直した制度の見返りとしての合理的な判断なのだ。

全ての人が資産がある程度あれば、結婚という制度はますます崩壊するだろう。

少子化は結婚した後の問題なので、また違う問題があるのだが、結婚に対するハードルが高いことで、結果的に少子化になっていることは否定できない。

子供を産まない夫婦が増えていることは、それ自体価値観の多様性なのだから、仕方がないのだ。それよりも、結婚しなくても子供が育つ環境を作ることが少子化としての唯一の解決策だと思うのだが、おじいちゃんたちには理解できないだろう。

人治国家日本の衰退

ガーシー事件はwinnyと同じく、国民世論を味方につけた過度な罰を与えようとしている。

誰かが言っていたが、車の制限速度を意図的に低くしているのは、罰を与えたい人に少しでも違反すれば捕まえることができるからだと。

一方、車で意図的に人を半身不随にして、3年で出所していく人もいる。

法の公平さは日本では感情論として左右している気がする。

いまだにこの国は法治国家と言えないのではないか。もちろん明治になってから法律が制定されているが、現代と感覚的にそぐわないことが多い。

民主主義国家というのならば時代とともに改革していくべきなのに変わることができないようだ。

winnyにしても警察の重要書類が流出したことで、それも公にしたくない情報が流出したことで報復的に捕まえたような印象がある。

FBIやCIAも権力を使って押さえ込もうとするが、それでも何年かすれば公にされていく。

どの国にも闇はあるが、日本は中国や北朝鮮とそれほど変わらない闇があるように感じるのはどうなのか。

年号もどんどん変わり令和になって昭和が遠くなっているのに、まだまだ江戸時代のような封建的な考え方を変えることはできないのではないか

日本型民主主義というとなんだかとても甘美な言葉だが、実体は中世に形だけ民主主義の衣をまとっただけなのではないか。

人治国家にみえるこの国のやり方はいつまで経っても変わらない。世界はたくさんの軋轢を経てどんどん進化しているのだ。価値観を変えることは一個人としてはとても無理だ

middle crisis

NEC,外資系IT企業、シリコンバレースタートアップ企業を経て、ベンチャー企業を立ち上げてきた。

20代は自分は日本人が世界で尊敬される民族として誇れるような社会を実現したいと思っていた。現実はまさに逆で日本は世界的なポジションを失ってきている。優秀な人たちは日本を見捨て世界に進出している。娘もロンドンで電力会社に勤めている。彼女は日本の商慣習や思考プロセスに見切りをつけたとも言えよう。

私自身は最初にNECに入社した当時から、世界に羽ばたきたいと思っていた。言語能力の問題や当時の社会情勢、学歴を考えて、大きなチャレンジができず、結局、当時小さかった外資系IT企業への転職という形になってしまった。しかし、成長期のIT企業への転職はチャレンジャーであり、少数派である。

そして、外資系IT企業が業績を伸ばし注目されたときに、日本企業は成長を捨てて雇用を守る労使交渉を行った。政府との話し合いにより、雇用優先を行ったわけである。その結果として、派遣労働の解禁と給与を低く抑えたことで、デフレが進み、結果として30年以上に渡る景気低迷(所謂デフレ)になるのである。

自分の誤算は日本が世界に追従するために、世界のスタンダードに合わせた改革を継続していくと思ったことである。折しも男女雇用均等法による男女間の平等機運が盛り上がったからである。しかし、現実には自民党の守旧派により、それから日本は世界と徐々に乖離をしていく。

日本人がシリコンバレーで成功することを夢見ていた自分としては、日本の教育システムや大企業によって、優秀な人材が国際的に活躍できず、内弁慶となりプライドの高い人が増えていくことになる。

そして本当に残念なのは小さな資産形成に満足してしまったことである。都心の高層マンションに住むことこそが人生の勝ち組となり、本当の豊かさをゆがめ満足してしまったことである。それも親の資産をも利用するという、小物ぶりを発揮している。

現在、日本型の終身雇用を強く残しつつある企業として、トヨタや有名商社は最高益となり未だにエリート企業として君臨しているが、それも時間とともに衰退するものと思われる。最後の砦となるこれらの企業が没落した時に、日本はようやく戦国時代に突入すると思われる。予想としては2030年であろう。平成生まれが40代になる時である。そしてようやく日本が世界のスタンダードとなり、英語が当たり前になっていくだろう。まだまだ前哨戦なのだ。

以前お話をした経産省の課長との話としては人には言えないが団塊が死ぬまで社会構造は変わらないということであった。まさにそれが的中したのである。

自分として、心残りなのはそういった本格的な日本のハードランディングを遅らせてしまったことで、その後におこる大改革を若いうちに経験できなかったことである。

現在、自分が悩んでいるのはこの先にどういったことを目標に生きていけばいいかということだ。残念ながらお金に執着しなかったことでファイヤーはできなかったこともあるが、この中途半端な立場をどう超えていけばいいのかを模索しているのである。所謂、middle crisisである。

半年間の冷却期間を経て、少し変わったことがある。それはやはり自分はチャレンジしなければいけないということである。何の時代に生まれようが、そこにどんな制約があっても同じである。例え来世があったとしても同じような時代の制約があり、そこで苦しみのだ。時代に乗れることだけが成功ではないと考える。

人生はプロセスであり、一生の戦いなのだ。たまたま成功した人はその時代にフィットしたことであり尊敬に値するが、やはり本人の哲学がその時代と一致したことが大きいだろう。時代と合わず死んでいった者たちは大勢いるだろう。そこそこ有名になった者でも十分尊敬に値するのだ。死後に評価される人物も多いだろう。

自分ができる範囲で日本の変革を進めたいと考えているのだ。NHK的に言えばバタフライエフェクトである。

梅毒が40倍

若い子の梅毒感染が40倍になっているそうである。いよいよ来たかという感じである。

もともと、この国は江戸時代までは性に開放的な国であった。夜這いの歴史にも書かれているがそれはどこの村でもあった風習である。昭和までは続いていたと書かれている。

そうなのだ。この国はどんどん江戸時代に回帰している。そもそも西洋文化は合わないのだ。不倫とか援助交際とかを否定しているのは、西洋かぶれであるといえよう。

それが建前であれば、本音は梅毒40倍の解放された売春である。

国家が成長してきたときには多少の窮屈も我慢してきたが、国家が衰退している今、人々は挙楽的な生き方に変質している。そもそも日本人は挙楽的な生き方が嫌いではないのだ。

もうこの流れは止まらないだろう。締め付ければ締め付けるほど、どこかで暴動が起きる寸前なのだ。政府はまだ暴動が起きないから大丈夫だとおもっているかもしれない。しかし、少しずつ我々の意識は以前とは違う暴動へと向かうエネルギーをためている段階なのだ。

安倍元首相が殺されたことを悲しんでいない人はかなりいるとみている。当然の報いだと。メディアは放送しないが、日本人の深層心理として罰を受けたとおもっているのだ。隠しても無駄だ。

この国の陰湿さは建前の性のタブーが実際は最も進んだ性への解放として世界で驚かれるほど無防備になっている。梅毒キャリアは増え続けているのだ。

結婚する人が減っている上に、梅毒キャリアを避けるブライダルチェックが加われば、より一層、結婚する人は減るだろう。江戸時代のように殆どの男性労働者は独身で終わる時代がやってくるのだ。

モザイクをかけようとしても無駄だ。日本人のスケベ心は世界ではヘンタイと言う言葉で象徴されるくらいにいやらしい表現でグローバル化しているのだ。

何故、この国は恥部を隠すのだろうか? 世界は冷静に日本の恥部を分析しあきれているのだ。

もうこの国のモラルはない。リスペクトする民族としては終わっていくだろう。

日本の最大の失敗は西洋的な哲学を学ばないのに、張りぼてのようにまねをしてしまったのだ。そもそも恋愛ができない民族なのに恋愛をさせようとする。性に開放的な民族なのに性をタブー視する。このようにダブルスタンダードが存在する限り、我々の意識はダブルバインドとしてデットロックされてしまうだろう。

もっと国民の恋愛の勉強をさせないと、金銭的な売春は増え続け、結果的に結婚という恋愛の帰結にならなければいけない儀式を人身売買のようになり結婚制度を崩壊へと導くのだ。

そもそもセックスレスが夫婦で存在している時点で結婚制度は崩壊しているのだ。海外では即離婚になるのに必死で耐えることが結果的に金でセックスを行うことを必然としているのだ。もう、これでは西洋に馬鹿にされてしまう。西洋のようにセックス=夫婦=愛という簡単な公式を理解できない不思議な民族であるのだから。

もう西洋のまねはやめるべきだ。我々は恋愛はできないのだ。恋愛の仕方がわからないのだ。だからセックスをお金の対価とするしかないのだ。だから結婚しないのだ。貞操観念のない女性を養う男性はいないのだ。

これからの未来は結婚はなくなり、あやゆる男女関係が解放されるだろう。愛がない社会に子供を育てる必要はないのだ。おじいちゃんがどんなに怒鳴ろうとももう戻らない。

西洋の哲学を理解しない民族は経済成長の停滞によって毎日毎日快楽だけを求めて生きることになる。本音と建て前がどんどん分離していくのだ。そして、いつかそれが完全に別れたときに暴動が起きる。そしていったん始まった暴動は止まらないだろう。それが日本民族の終了の合図である。

 

悪循環

1990年代から日本は世界の流れに逆らうようにどんどん悪くなっている。自分の感覚から、精神的な鎖国状態に入ったのは2000年代くらいだろう。未だに西暦でなく和暦を使う役所では、それを当然のように思うところから、世界との考え方の差を感じてしまう。

1990年代は日本がいよいよ世界で戦う準備ができたと考えている。しかし、現実には日本は世界で戦う準備までしておいて、そこから逃亡してしまった。何か勘違いをしてしまったのだ。

それまでは日本は世界の考え方を取り入れていた。文化的にもアメリカやイギリスの影響を音楽、映画、服装など取り入れていた。しかし、そこから狂ってしまったのだ。

急に日本回帰というか、ガラパゴス化を目指してしまった。

外資系企業が増えてきたときに、日本企業は外資系企業を目指さず、独自の商慣習や資本主義を貫いてしまったのだ。それは中国が行う強制的なやり方とは違い、まるで明治維新から江戸時代に戻った感覚である。

怖じ気づいたのであろうか?  もし1990年代に会社の公用語を英語にして、自らグローバルと戦う意思を持てば、日本は世界でのポジションは変わっただろう。しかし、現実には浪花節的な発想として、我々はグローバルを拒否してしまったのだ。

現実にそれが徐々に日本の競争力を減らしていったのだ。

ソニーや本田のようなベンチャー起業が減り、まるで邪魔者のようにベンチャー起業の育成を国が辞めてしまった時期であるのだろう。サラリーマンが既得権益化したのが原因かもしれない。

建前では既得権益に反対する殆どの日本の国民も、現実には自らを変革できないのだ。批判するつもりはなく、そもそも日本という国が変革を嫌うDNAがあるのだということだ。

また、その諦めが拝金主義の台頭により、嫌らしい国民性へと変質してしまったのだろう。

自分の生活を守ることにより、社会のあるべき姿を変質させ、結果的に国の方向性を内向きにしたことで、少しずつ国力が下がっているのだ。

経済記事をいくら読んでも、数字の根拠となる出来事は見つけられない。しかし、感覚的には国民のほとんどは何故国力が下がっているのかわかっている。

法律も行政も価値観を変えない頑固さ、ジェンダー問題だけでなく少子化問題など、何一つ変えようとしないのだ。

誰か有名な方がお話ししていたが、結局精神的には江戸時代と同じ価値観が続いているのかもしれない。精神的な変革をしないまま、国力が少しずつ下がっているのだ。

教育問題も大きい。未だに国語は情操教育であり、人の感情を重きに置き、効率的な国語力を鍛えることはない。日本語は形容詞が多いとても非効率な言語であり、それを習得したとして、生活が便利になるものではない。協調性や他者の視点を学ぶことはとても有意義かもしれないが、効率性とは無縁である。特に古文や漢文は趣味の世界であり、それを必須学問化するのはどうだろうか?  もっと数学的や論理学を学ぶべきだし、哲学を学ぶ機会も少ない。それでは世界に出たときに戸惑うのである。

決して世界史を学べとは思わない。生半可な世界史を学んでも西洋の考え方を理解することは難しい。西洋哲学を学ぶならばわかるが、世界史では理解できないことも多い。

つまり、人文学自身も情緒的な学問として捉えてしまうことがおかしいのだ。

日本の文化を否定する必要はない。ただ、そこで引きこもることが悪いと言っているのだ。自分はさまざまな神社やお寺にお参りする。普通の人よりもお参りする方である。また宗教も好きであり、仏教や禅にも大変興味がある。しかし、文化と情緒的な物事を優先することとは別である。

世界を学ぶことと家に神棚があることは次元が違う。神棚もないのに、世界を毛嫌いして自らガラパゴス化している国民が多いのではないだろうか。

まるで西洋資本主義が拝金主義のように感じている人も多いだろう。

今でも日本は法治国家ではなく人治国家として、winnyのような得体の知れないものを排除する村社会であると思う。

一時、村は世界と対等になったのだが、やはり村は村でしかなく、日本が世界の端っこにある小さな村になってしまうことはとても残念である。

悪循環となるこのスパイラルな下降線はどこまで続くのであろうか。日本脱出という言葉も増えている。スポーツでは海外をめざすことは当たり前である。その次は日本のエリートが海外に目指すことがあたりまえになり、最終的には中間層も海外に出て行く社会になるかもしれない。