Blog for complaining

世の中不満だらけ

悪循環

1990年代から日本は世界の流れに逆らうようにどんどん悪くなっている。自分の感覚から、精神的な鎖国状態に入ったのは2000年代くらいだろう。未だに西暦でなく和暦を使う役所では、それを当然のように思うところから、世界との考え方の差を感じてしまう。

1990年代は日本がいよいよ世界で戦う準備ができたと考えている。しかし、現実には日本は世界で戦う準備までしておいて、そこから逃亡してしまった。何か勘違いをしてしまったのだ。

それまでは日本は世界の考え方を取り入れていた。文化的にもアメリカやイギリスの影響を音楽、映画、服装など取り入れていた。しかし、そこから狂ってしまったのだ。

急に日本回帰というか、ガラパゴス化を目指してしまった。

外資系企業が増えてきたときに、日本企業は外資系企業を目指さず、独自の商慣習や資本主義を貫いてしまったのだ。それは中国が行う強制的なやり方とは違い、まるで明治維新から江戸時代に戻った感覚である。

怖じ気づいたのであろうか?  もし1990年代に会社の公用語を英語にして、自らグローバルと戦う意思を持てば、日本は世界でのポジションは変わっただろう。しかし、現実には浪花節的な発想として、我々はグローバルを拒否してしまったのだ。

現実にそれが徐々に日本の競争力を減らしていったのだ。

ソニーや本田のようなベンチャー起業が減り、まるで邪魔者のようにベンチャー起業の育成を国が辞めてしまった時期であるのだろう。サラリーマンが既得権益化したのが原因かもしれない。

建前では既得権益に反対する殆どの日本の国民も、現実には自らを変革できないのだ。批判するつもりはなく、そもそも日本という国が変革を嫌うDNAがあるのだということだ。

また、その諦めが拝金主義の台頭により、嫌らしい国民性へと変質してしまったのだろう。

自分の生活を守ることにより、社会のあるべき姿を変質させ、結果的に国の方向性を内向きにしたことで、少しずつ国力が下がっているのだ。

経済記事をいくら読んでも、数字の根拠となる出来事は見つけられない。しかし、感覚的には国民のほとんどは何故国力が下がっているのかわかっている。

法律も行政も価値観を変えない頑固さ、ジェンダー問題だけでなく少子化問題など、何一つ変えようとしないのだ。

誰か有名な方がお話ししていたが、結局精神的には江戸時代と同じ価値観が続いているのかもしれない。精神的な変革をしないまま、国力が少しずつ下がっているのだ。

教育問題も大きい。未だに国語は情操教育であり、人の感情を重きに置き、効率的な国語力を鍛えることはない。日本語は形容詞が多いとても非効率な言語であり、それを習得したとして、生活が便利になるものではない。協調性や他者の視点を学ぶことはとても有意義かもしれないが、効率性とは無縁である。特に古文や漢文は趣味の世界であり、それを必須学問化するのはどうだろうか?  もっと数学的や論理学を学ぶべきだし、哲学を学ぶ機会も少ない。それでは世界に出たときに戸惑うのである。

決して世界史を学べとは思わない。生半可な世界史を学んでも西洋の考え方を理解することは難しい。西洋哲学を学ぶならばわかるが、世界史では理解できないことも多い。

つまり、人文学自身も情緒的な学問として捉えてしまうことがおかしいのだ。

日本の文化を否定する必要はない。ただ、そこで引きこもることが悪いと言っているのだ。自分はさまざまな神社やお寺にお参りする。普通の人よりもお参りする方である。また宗教も好きであり、仏教や禅にも大変興味がある。しかし、文化と情緒的な物事を優先することとは別である。

世界を学ぶことと家に神棚があることは次元が違う。神棚もないのに、世界を毛嫌いして自らガラパゴス化している国民が多いのではないだろうか。

まるで西洋資本主義が拝金主義のように感じている人も多いだろう。

今でも日本は法治国家ではなく人治国家として、winnyのような得体の知れないものを排除する村社会であると思う。

一時、村は世界と対等になったのだが、やはり村は村でしかなく、日本が世界の端っこにある小さな村になってしまうことはとても残念である。

悪循環となるこのスパイラルな下降線はどこまで続くのであろうか。日本脱出という言葉も増えている。スポーツでは海外をめざすことは当たり前である。その次は日本のエリートが海外に目指すことがあたりまえになり、最終的には中間層も海外に出て行く社会になるかもしれない。